〜 歴史 〜

むかしむかし… 
宿の周りは海に囲まれていました。
窓辺からは、輝く美しい海の波がきらめき、
人々はそれを眺めていました。
宿の名前「金波楼」は、
埋め立てられる前の八代海に沈む
夕日の美しさを讃えた名前であり、
海に揺れる金色の波が、
展望の良い三階から眺望できたことに
由来しています。

金波楼 年譜

明治43
8月 熊本県芦北郡日奈久町に木造3階建て旅館「金波楼」を開業
初代館主 松本参郎
大正3
本伊勢屋買収 移設
昭和3
2代目館主 松本謙吉着任
昭和13
大広間80畳敷増設
昭和24
家族湯創設
昭和25
合資会社金波楼設立 代表社員 松本謙吉
昭和27
三笠宮殿下ご来館
昭和31
国際観光旅館連盟加盟
昭和35
創業50周年
高松宮殿下ご宿泊
昭和40
新館増設
昭和42
しのはらホテル別館買収改築
大浴場・会議室増改築
昭和46
合資会社金波楼 代表社員 松本米子
平成9
大浴場改修・露天風呂新設
休憩所改修
平成12
客室改修
三代目館主松本寛三(代表社員)
平成13
ぎゃらりぃ新設
平成17
九州遺産101掲載(国土交通省監修)
大広間改修 食事処・お休み処移設
平成21
くまもと景観賞受賞
国・登録有形文化財
平成22
創業100周年

守り伝える歴史

HISTORY

2010年8月、金波楼は、創業100周年を迎えました。
今から600年ほど前、1409年(応永16年)に
発見された熊本県最古の温泉であり、
湯治場として栄えてきた日奈久温泉とともに
歩んできた木造三階建ての宿でございます。

  金波楼の名前は、見晴らしの良い三階から、
八代海に沈む夕日に映えた金色の波が
展望できたことに由来しています。

  木造3階建て旅館の密集する町並みの中で、
もっとも大きく贅をつくした旅館として、
創業百有余年、営業してまいりました。
旅館建築の折には「九州一の温泉宿」として、
九州日々新聞(現熊本日々新聞)にも紹介されています。
干潟の中にひっそりと湧いていた日奈久温泉に、
細川藩は明暦3年(1657)温泉浴室を大改築。
大規模な藩営の温泉場ができました。
  藩主が入浴する「御前湯」、武士のための「お次ぎの湯」
平民のための「平湯」の三つの仕切りをつけた、
身分に分けた浴槽で、画期的なものでした。
  さらにその200年後の1863年(文久3年)、
藩主が湯治を行う際の宿泊地の隣に
「松本の湯」が、発見されました。

九州一の温泉宿
浴場だけで五千円の工事

1909年(明治42年) 7月7日
九州日日新聞に「九州一の温泉宿」
として紹介されています。

葦北郡日奈久町の素封家松本諦三郎氏が、同地繁栄の一策として、約二万円を投じ、(明治)四〇年六月より起工したる九州無比の大旅館は、ほぼ落成し て、本年八月より営業開始のはずなるが、敷地百坪の三層楼にて十二畳半と八畳敷の客室十八間と、玉突き場を置き、部屋は隣室の喧噪が聞こえざるよう、風通 しと光線眺望の許す限り塗壁とし、廊下を思い切って広くしたれば、屋内の運動に便利よく、梯子を六尺幅として、足場九寸、勾配五寸七分とせり。
 用材はおもに人吉より取り、欄干と廊下は桜を。その他、栂樫等良材を用い、襖、障子は熊本に、大工は同地の牧喜太郎氏棟梁にて、左官は大阪大森組の推薦にかかり、襖にはすべて鳥の子を用いる。
  サンゴ屏風の絵も珊瑚白金等にて極彩色を施せるなどにて床の掛物またこれに応じて探幽華山筆等同家秘蔵の逸品なる由、寝台椅子のごとき遠く上海 に注文し、庭園の石灯籠は徳山より、その他の石材は三角より取り寄せ、椋、椎、松、桜など十五、六尺の巨木をわざわざ庭園に移植したるごとき、いかに費用 を惜しまざるかを知るべし。
  また同旅館の特色は浴場と屋上庭園にて、浴場の広さ、五十坪、高さ一丈三尺。浴槽は普通の男湯女湯の他、夫婦入り二ヶ所、都合四ヶ所に分かち、浴場だけにて五千円を要したりと。
  浴室の屋上五十坪は庭園とし、泉水築山花園藤棚、茶室噴水等を設け、浴後の逍遥、休憩場にあて、日奈久は蔬菜の不自由なるより、野菜畑を作りて 不時の需要に応ずることとし、宿料のごときも、従来の木賃制度に幾分改良を加えたる経済方法にて料理人給仕女等も大阪、熊本の大旅館に交渉して、その粋を 抜くはずなるが、とにかく営利を主眼とせず、旅客の満足を計るが目的なれば、すべての方法設備が理想に近く、以て、日奈久の誇りとするに足るべき大旅館なり。

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